大判例

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仙台地方裁判所 昭和31年(わ)269号 判決

被告人 甲

主文

被告人は無罪。

理由

第一本件公訴事実

本件公訴事実は、

被告人は少年で、時折A(当時十九年)の通勤の往き帰りに行き逢い同女に心を惹かれていたのであるが、

第一、偶々昭和三十年九月五日午后十時過頃、同女が被告人方前国道を通過するのを認め、見えがくれに尾行して午後十時半頃気仙沼市九条市営住宅附近路上に至り、同所に於て、急ぎ同女の背後に迫つて情交を求めたところ一言のもとに峻拒されたことに憤慨し、同女の後から右腕を巻いてその場に押倒した上、左手で首を押え、右手で所携の刃渡四寸位の刃物を突きつけてその反抗を抑圧し強いて姦淫しようとしたが、同女の抵抗に会いその目的を遂げなかつたが、その際右刃物で同女の左前膊に二ヶ所、左上膊に一ヶ所の刺切創を負わしめ、

第二、その直後、同所附近に於て、右Aより自己の顏面を見られたので、同女の口より右事実を暴露されれば在学中の気仙沼高等学校を退学させられ、更に警察等より取調を受けるに至るべきを憂慮し、これを防止するため寧ろ同女を殺害しようと決意し、右刃物で同女の腹部並びに背部を各一回強く突き刺し、同女をして同日午後十時四十五分頃同市九条四百二十二番地市営住宅六号海原源太郎方に於て、右刺創に基く失血により死亡せしめてその目的を遂げたものである、

というのである。

第二、被害者の当夜の行動と本件犯行の場所並びに時刻

川村宮子の司法警察員並びに検察官に対する供述書、小野寺ちい子、茂木章、柏木孝子、海原源太郎の司法警察員に対する各供述調書、海原文雄の答申書、吉川達雄の死体検案書、高橋健吉の鑑定書、司法警察員の実況見分調書(二通)、当裁判所の昭和三十一年十二月三日の検証調書を綜合すると、Aは昭和三十年九月五日午後九時四十五分乃至五十分頃当時の勤務先であつた気仙沼市字西風釜四十五番地(通称大堀銀座)所在の銀座スマートボール店を立出で同市九条市営住宅六号の自宅に帰るために帰途についたがその際同僚である川村宮子、小野寺ちい子の両名も帰宅の方向が同一であるためAと同行し同市八日町、三日町、本町を経て本町橋に至つたが小野寺ちい子は本町橋の手前で別れその後はA、川村宮子の両名で同橋を渡り気仙沼高校に至る通称学校通りを進み同校正門前を経て同校西南角の三叉路で両名が別れたこと、川村は右三叉路から左に折れ、Aはそのまま九条の自宅に向つて進んだこと、同夜十時二十五分頃同女は左、右前膊部、左下腹部、右上背部に各刺創、左上膊部に切創をうけ同夜十時二十五分頃自宅玄関口に大きな叫び声を上げて転げこんだがそのまま同夜十時四十分頃右上背部の刺創に起因する失血のため死亡したことを認めるに足り、同女が右の傷害をうけたのは同女が川村と別れた前記三叉路から自宅に至る約三百五十米の距離の道路上又はその周辺であること、又銀座スマートボール店から前記三叉路までは通常の歩行速度で約二十六分を要するので同女が川村と別れた時間は午後十時十一分乃至十六分頃と推認され従つて同女が傷害を加えられた時刻はその頃から十時二十五分頃の間と認められる。

又同女等が被告人方通路入口前を通過したのは午後十時九分前乃至四分前頃と推認される。

第三、被告人の自白の経緯とその内容

証人佐藤利一、同佐藤好一の各証言、司法警察員の捜査報告書並びに家庭裁判所の審判調書、被告人の各供述調書によると本件は前記のように昭和三十年九月五日午後十時半近い頃発生し、以後幾多の者が容疑者ないし参考人として取調べられ、被告人もまた本件捜査開始後間もない頃同日三日町に居住し素行不良の者として容疑者の一人に目されたが、一応事件発生当時のアリバイが立つものとして放置されていたところ、その後遂に本件の犯人と目せられる者を検挙するに至らないため県警察本部の指示により気仙沼警察署は昭和三十一年四月から第三次捜査を開始したが被告人には右アリバイにつきなお不明確な点ありとして同年七月初旬頃から更に被告人に関し捜査が為され同月二十八日から被告人は連日警察の任意捜査による取調を受けるに至り右取調開始の日から四日目である同月三十一日の午後一時半頃本件犯行を自白するに至つた。そこで同夜本件で逮捕状が執行されたが、その際は被告人は犯行を否認した。しかし翌八月一日には再び犯行を自白し以後これを維持していたが、家庭裁判所に送致され仙台少年鑑別所に収容されていた同年八月三十一日に至り家庭裁判所調査官に対し犯行を否認し、翌々日の九月二日に法務教官に対し犯行を自白したが、翌九月三日には又も犯行否認に転じ爾来これを維持し公判廷においても犯行を否認し続けている。

被告人が右のようにして犯行を自白していた期間における被告人の供述を録取してある書面としては司法警察員作成の供述調書が十四通、検察官作成の供述調書が三通、同じく弁解録取書が一通、裁判官に対する陳述録取調書が一通あり、その他に被告人の犯行に関する詳細な指示説明が記載されている司法警察員作成の実況見分調書が一通ある。以上の調書類のうち被告人が犯行を詳細に供述(右実況見分調書中の指示説明を含む。以下同じ)したもの及び特に使用兇器につき詳しく述べているものをその作成年月日順(供述の順に照応する)に列挙すれば〈1〉司法警察員作成の昭和三十一年七月三十一日付供述調書、〈2〉司法警察員作成の同年八月一日付供述調書、〈3〉司法警察員作成の同年同月二日付(甲)供述調書、〈4〉司法警察員作成の同年同月同日付(乙)供述調書、〈5〉検察官作成の同年同月三日付供述調書、〈6〉裁判官に対する同年同月四日付陳述録取調書、〈7〉検察官作成の同年同月同日付供述調書、〈8〉司法警察員に対する同年同月同日付供述調書、〈9〉司法警察員作成の同年同月十八日付実況見分調書、〈10〉検察官作成の同年同月十九日付供述調書である(以上のうち〈3〉〈4〉〈8〉は兇器についての供述のみを内容とするものである)。ところでこれら証拠によれば被告人の本件自白の内容は概ね次に摘示するとおりである。右摘示においては本文は最後になされた供述に従つて記述し被告人が重要と認められる点について明らかに異つた供述をしていると認められる部分については括弧内でその相異する関係を示すことにする。なお、以下において地点の表示は特に断り書のない限り当裁判所が昭和三十一年十二月三日為した検証の調書に添付されている見取図其の一、其の三の地点表示符号に拠るものとする。

被告人は昭和三十年九月五日午后十時頃気仙沼市三日町大通りから自宅の方に入る露路の入口附近に立つて大通りの人通りを眺めていたところ、たまたまその顏だけ知つておりかねて好感を持つていたAが他の二人の女とともに三人連れで同市八日町の方から歩行して来たのが目にとまつたので同女の氏名や住所を確めたいものと思い百米前後の間隔を置いてこれを尾行した。同女等は三日町から化粧坂を通つて進んでいつたが本町橋の手前で一人の女が見えなくなつた。その后Aはもう一人の女と二人連れで本町橋を渡つて右折し気仙沼高等学校前を通る道路を進んで行き右高等学校北西角の三叉路でもう一人の女とも別れて一人になつた。これを見るや被告人はにわかに劣情を催し同女を姦淫しようと考え急ぎ足で同女に近ずき、かやのみ保育園入口の三叉路(〈ヲ〉点)附近で同女に追いつき「ちよつとちよつと」と声をかけてその左側に並びやにわに左手で同女の左腕を掴み右手を同女の右肩あたりにかけ驚いて逃げようとする同女に対し「つらわかんなければいいじやないか(顏が分らなければよいではないかの意)」と言いながら同女を右三叉路から約二十七米余九条市営住宅寄りの道路西側の草原の道路から三―四米入つた処、(〈カ〉点、これを仮りに第一犯行現場と称する)に引張り込みそこに押し倒して馬乗りになり、左手で同女の首のあたりを押えつけたところ同女は激しく抵抗しその右手に持つていた買物籠のようなもので被告人の顏を殴つてきた。そこで被告人は脅かすつもりで護身用として携えていた刃物(この刃物が如何なるものであるかの被告人の供述内容は後に述べる)を取り出してこれを右手で刃の方が親指と人差指の間から出るようにして握り突きつけたところ、同女がこれを払いのけようとして両腕を振り廻した。すると同女の両腕の内側が黒つぽくなつたので刃物が刺さつて血が出たことが判つた。(〈1〉では最初に刺したとき同女はアッと云い一寸経つてウムと唸つたようだと述べている)そこでそれ以上傷つけてはいけないと思い刃物の刃を内側にして逆手に持ちかえたところ同女は被告人の右腕を掴んでこれを上方に押し上げた。そこで被告人も右腕に力を入れていたが、同女が右のようにして押し上げていた腕の力を一寸弛めた瞬間そのはずみで被告人の右手の力が剰つて刃物が同女の左乳のあたりか左肩のあたりに刺さつた(〈1〉では刃物を刺したような感じがしたと述べている)。そこで被告人は驚いて立上つた。被告人はここで姦淫の意思を捨てた。同女も直ぐ起き上つて走つて逃げ、(〈9〉ではあまり早くない足どりで逃げたと述べている)そこから約三十米位九条市営住宅寄りの路上(〈ヨ〉点)で被告人を振り返つた(〈1〉〈2〉〈5〉〈6〉〈7〉にはこの点述べられていない。〈9〉ではこの辺で同女が立ち止つて後を振り向いたように見えたと言つている)。被告人は走つて行つて逃げる同女の背後から右手に持つた刃物が同女に刺さらないようにして両手で押したところ同女はその辺の草むらにつんのめるようにうつぶせに倒れたが直ぐに立上つて道路の東側を急ぎ足で逃げた(この点は〈10〉でのみ述べられている)。被告人は同女に自分の顏が判られてしまつたものと思い後日同女の口から自分の犯行が暴露されて警察の取調を受けるようになることを心配し、同女に謝つてみようかと思い(〈1〉〈2〉〈5〉〈6〉〈7〉ではここで已に同女を殺害する決意した旨述べている)同女を追いかけ〈ヨ〉点より約三十五米位九条市営住宅寄りの路上(〈タ〉点これを仮りに第二犯行現場と称する)で追いつきその前に立ち塞がり左手で同女の左肩を押えようとしたところ同女が被告人の左手を外して走ろうとした(〈9〉では左肩に手をかけたが外されたので同女の後首のところを抱くようにして左手をかけたら同女はその進む方向に向つて左の方に逃げたと述べている)。そのはずみで被告人が右手に刃の峯の方を上にして普通の握り方で持つていた刃物が同女の臍の斜下あたりに相当深く刺さつた(〈1〉〈2〉〈5〉〈6〉〈7〉では被告人はここで左手を以つて同女を抱くようにし右手に持つた刃物を同女の左下腹部に強く突き刺したと述べ特に〈2〉では同女に加えた傷害のうち最も強く刺したのは左下腹部だと述べている)。その際同女は相当大きな声で悲鳴に近い声で叫んだ(〈1〉〈2〉〈5〉〈6〉ではこの叫び声につき述べるところがない〈7〉では同女が何か叫んだように思うと述べ〈9〉ではああともきやあとも言えないうめき声を出しその辺で倒れたようであつたと述べている)。同女はなおもふらふらしながら歩いて行つた。ここで被告人は同女を殺害する外なしと考え〈タ〉点から更に五十米位九条市営住宅寄りの路上(〈レ〉点これを仮りに第三犯行現場と称する)で再び同女の前に立塞がり左手で同女の首を抱えるようにし逆手に刃物を握つた右手を同女の背後に廻し同女の右肩のあたりを力一杯突き刺した(〈1〉では同女の背後からその右肩のあたりを右斜の方から下に突き刺したと述べた上ここで同女はアともウワともつかない声を出したと言つている。なおこの地点での同女の叫び声については〈5〉〈9〉で同女が声を出したかどうか判らないと述べている、その他の調書にはこれについて触れるところがない)。そして同女がその后どのようになつたかも確めないでその場から逃走して(逃走経路については前記検証調書添付見取図其の一参照)帰宅したが、帰宅時刻は翌朝の父の話では午後十一時二十分頃とのことであつた。

右被告人の自供の内容は前記被害者の当夜の行動、犯行がなされたと認められる時刻並びに場所の関係に照らして考察するとその間必しも矛盾するところを見出し難いのみでなくその状況はよく合致することが認められるのである。

第四当公判において供述する被告人の当夜の行動

当公判において被告人は本件犯行を否認し本件発生当夜の被告人の行動について大要次のとおり述べている。

九月五日は午後六時三十分頃自宅で夕食をたべたが母は不在であつた、その後外出しようとしたが前の晩外出して遅く帰り父に意見されたので黙つて出ようとしたら父に何処に行くのかと云われ、一寸外出すると云つたら、いくら云つても判らないのかという意味のことを云われたのでやめた、午後七時半頃父が一寸表まで行つてくると云つて出かけたので自分も出かけるつもりになり、父が帰る前に戻ればよいと思つて外に出た、自分が家を出たのは午後七時四十分頃である。家を出たが金が全然ないので父が大堀銀座のスマートボールに行つていると思い父から小遣を貰うつもりで真直ぐそこへ行つた、入口の処まで行つたら父はスマートボールをやつていたが、後めたい気がして入りかねていると父が一寸後を見たとき父と視線が合つたので叱られるのをおそれ瞬間的に暗がりに身をかくしそこから神明崎(被告人方とは反対の方向)に向い歩いて十分位で着いた、そしてそこの貸ボート屋の前のベンチに腰をかけ店の人達と一時間位話をした、それから堺けい子に話したいことがあるので神明崎の五十鈴神社の鳥居の辺で学校(定時制高校)から帰る同人を待つていた、その時刻は午後九時頃と思う。来なかつたので既に帰つたのではないかと思い鹿折の宮城罐詰工場の先にある同人の家に行つて見るつもりで出かけたが訪ねるのも気がひけ家の手前で立止つて様子を見ていたが結局寄らずその儘帰ることにして帰途についた、帰り途に大通りを来てロマンス座前へ来たときナイトシヨウが始まるベルが鳴つていた、ナイトショウを見たいと思つたが金を持つていないので誰か知つている者が来たら金を借りようと思つて附近に十五分位立つていたが来ないのでロマンス座の脇の道を通つて鼎座へ行つて見た鼎座の前に十分か十五分位立つていたがそれから大堀銀座に出て、スマートボールの前を通つて家に来た、家に来た時は午後十時頃になつており、雨戸の隙間から家の内を窺つて見ると父は家に居て床について本でも読んでる様子であつたので父が寝ついてから入ろうと思い家の通路の入口(田中機械屋の横)に引返してそこに立つて二、三十分位外を見ていた、それから家に入ろうと思い家の中庭に入つて戸袋に一番近い雨戸を静かに開けようとして動かしている内ガタガタ音を立ててしまつたのでその物音で祖母が起きて来て開けてくれ、そのまま床に入つて寝た、時刻は午後十時五十分頃でなかつたかと思うというのである。

被告人が当公判において述べる当夜の行動の内その冒頭から被告人が同夜午後十時頃家に来たが更に引返して家の通路の入口に立つていたことまでの行動経路及びその時刻の関係は前記被告人が犯行自供の調書においても略々同様に述べられている。従つて前記自供調書においては右通路入口に立つていたがその場から再び家に引返したものではなく、そこから前記のような犯行の行動が起されたことになつているのである。

第五本件自白の真実性の有無

被告人の本件の自白内容は前記のとおりでありこれが前記当夜の被害者の行動との関係で特に矛盾するところを見出し難いことは前に述べたとおりであるが更に深くその他の証拠に照らしその真実性の検討を加える。

(一)  被害者Aの死体に存する損傷の検討

高橋健吉の作成した鑑定書によれば、Aの死体に存する主要な損傷は五個あつて、その詳細は次のとおりである。

〈A〉  背部右側の刺創 この創は外表では第五肋間部から第六肋骨部にわたり正中の右方約十二・〇糎の所を中心とし右梢上方より左梢下方へ長さ約三・一五糎。右創端に巾があり左創端は尖鋭である。創洞は胸壁を貫き肺臓に達し、右肺下葉を貫通し更に中葉と下葉との葉間部に創を作り中葉に終り、下葉創洞中で気管支梢を傷け肺動脈分枝を切断する。創洞の方向は後上右方より前下左方へ向い全創洞の長さは約十一・一糎(肺臓の創洞約四・六糎、胸壁の創洞約六・五糎)ある。兇器は片刃の刃器で背面右側を後右上方より前左下方へ刺入し、その際刃は左側にあつたものと考えられる。

〈B〉  腹部左側の刺創 この創は外表では臍窩の左方約一〇・五糎揚骨前上棘の上僅前方約七・三糎の所を中心とし左後上方より右前下方に向い長さ約二・三糎ある。右創端に巾があり約〇・二糎を算え、左創端は尖鋭である。創洞は腹壁を貫き腹腔に入る。腹壁腹膜には外表の創より上方二横指の高さに長さ約一・八糎の創があり、腹壁の創洞の長さは約三・八糎ある。腹管や腹腔臓器には損傷はない。この損傷には出血が少く筋肉や皮下脂肪組織に血液の浸潤は認められない。兇器は片刃の刃器で前下方より後上方へ刺入されその際刃は左方にあつたものと考えられる。

〈C〉  左前膊内側面の刺創 この創は外表では左前膊内側面前半上三分の一の所に刺入口あり、前微下方より後微上方へ走る。長さ約二・〇糎ある。後創端は尖鋭、前創端に巾があり、巾は約〇・一五糎ある。創洞は皮下脂肪組織中にあり上前微右方より下後微左方へ走り約二・〇糎ある。兇器は片刃の刃器で左前膊を上前微右方より下後微左方へ刺入し、その時刃は後方に向つていたものと考えられる。

〈D〉  右前膊前側の刺創 この創は外表では右前膊前側略々中央に左下方へ突彎弧状をなして上左後方より下右前方へ走る。弧長約三・四糎弦長約三・〇糎ある。下創端は尖鋭、上創端は巾があり約〇・一五糎を算える。創洞は下前微内方より上後微外方へ外表面と約三〇度位をなして走り長さ約九・六糎ある。皮下脂肪組織、膊僥骨筋、外側伸筋を傷つけ、創洞の最も先端は外表より深さ約三・二糎ある。創洞の周囲に出血は多く筋肉の中にも浸潤する。兇器は片刃の刃器で下前微左方より上後微右方へ刺入されたものと考えられる。

以上四個の刺創は夫々の創の創縁、創洞、創端の性状は略等しく、同一兇器により生じたものと考えられる。所謂片刃の刃器で峯の厚さは約〇・一五乃至〇・二糎、長さは約一一・一糎以上あり幅は約二・三乃至二・八糎位のものと考えられる。

〈E〉  左上膊前側の切創 この創は左上膊前側略中央に左梢上方より右梢下方へ走る。長さ約二・四糎皮下脂肪組織に止まる。兇器は具体的に明らかでないが前記の刺創を生ぜしめた兇器の刃によつて生じ得るものと考えられるとされている。

なお、被害者が被害当時着用していたカーデイガン(証第十号)及びブラウス(証第十二号)の各左袖上部にある傷痕の形状から見るとこの切創は片刃の兇器が被害者の左上膊部と左胸部との間に左前上方から右後下方に向つて刺入されたために生じたものと推認される。

そこでこれらの創傷の個数部位、外表における創口の方向と形状、創洞の方向とその深さを被告人の前記の如き本件犯行の自供と対照すると〈C〉及び〈D〉の左右前膊部刺創並びに〈E〉の左上膊部切創は被告人が為したという第一犯行現場における動作により〈C〉及び〈D〉の各刺創については被告人のつきつけた刃物がこれを振いのけようとして振り廻した被害者の両腕に触れたという動作により、〈E〉の切創については被害者において被告人の右腕を押し上げていた腕の力を弛めた瞬間被告人の右腕の力が余つたはずみで右手で逆手に持つていた刃物を被害者に突き刺してしまつた――被告人はこの際被害者の左肩のあたりか左乳あたりに刃物が刺さつたように感じたと述べているのであるが、この点は被告人において刃物の刺入箇所を誤認したものと考えても不自然ではない――という動作により、〈B〉の腹部左側刺創は第二犯行現場における動作により、〈A〉の背部右側刺創は第三犯行現場における動作によりよく生じ得るものであり、その自供する動作はこれら刺切創の個数、部位、外表における創口の方向と形状、創洞の方向と深さと極めてよく符合し、それ自体として、特に矛盾するところは認め難い(昭和三十一年八月十七日附司法警察員作成の実験結果に関する報告書)。

ところで前記の被告人の本件犯行の自供によれば被告人がAに創傷を加えた場所とその時間的順序は、先ず第一犯行現場で〈C〉の左前膊内側面刺創と〈D〉の右前膊前側の刺創を加え(〈C〉〈D〉両者間の先後の関係は不明である)、次に同じ場所で〈E〉の左上膊前側切創を加え、次に同所から約六十五米隔てた第二犯行現場で〈B〉の腹部左側の刺創を加え最後にそこから更に約五十米隔てた第三犯行現場で〈A〉の背部右側の刺創を加えたことになる。しかるにAの死体解剖を行つた高橋健吉は当公判廷において大要次の趣旨の証言をする。

「Aの死体の腹部左側の創(〈B〉の創)には出血はあるがその量は少い。腹部は大きな血管がないのでその損傷による出血は比較的に少いとはいえるが、それにしてもこの程度の創としては出血量が少な過ぎる。それ故この創は被害者の心臓機能が低下し血圧が低下した後死亡の時期に近い頃に出来たものと考えられる。すなわちこの場合被害者には血圧を低下させるような創として背部右側に肺動脈を損傷する創(〈A〉の創)があるのであるが、腹部左側の創は背面右側の創が加えられ胸腔内に相当多量の出血があつた後で出来たものと考えるのが法医学的見地から見て常識でありその蓋然性が甚だ高い。右前膊部にある創(〈D〉の創)は出血が多量で筋肉中にも血液が浸潤しているが、このことからして右の創は前記背部の創と同時に出来たか、もしくは右前膊の創が先ず出来た後相接して右背部の創が出来たものと考えるのが法医学上妥当である。右背部の創のような重傷を受けても被害者が緊張した精神状態を維持する限りなお最長数百米も歩行することがあり得る。」

そこでAの左腹部の創の出血が少なかつた原因について同証人の述べる全身的血圧の低下以外に着衣による圧迫その他何か特段の事由がなかつたかについて当裁判所はいろいろの角度から慎重なる検討を加えたが遂にこれを発見出来なかつた。従つて右高橋証人の証言によつて認められる腹部左側の刺創〈B〉が背部右側の刺創〈A〉よりも後で出来たものであること及び右背部右側刺創〈A〉は右前膊前側刺創〈D〉と同時もしくはこれと相接して出来たものであることの高度の蓋然性を尊重せざるを得ない。しからば被告人の犯行動作の自供による前記五個の創傷の形成された順序は事実と喰い違う高度の蓋然性を持つものである。尤も被告人が本件自白にあたりAの背部右側の刺突と腹部左側の刺突との順序を故意に詐つて述べたのではないかとの疑念も生じないわけではなく、或は又被告人が本件犯行当時異常に興奮した精神状態にありそのため腹部の刺突と背部の刺突の順序を誤り記憶していたか、もしくはこれについてはつきりした記憶を有しなかつたため最初に犯行を自白するに当り右の順序を取違えて供述し、そのままそれを自白期間中に亘つて雑持したのではないかとの臆測がなされないでもない。しかしながら右の刺突の順序についての被告人の供述は被告人が本件犯行の詳細を述べているすべての調書類(前記〈1〉〈2〉〈5〉〈6〉〈7〉〈9〉〈10〉の調書)において終始一貫しており、腹部左側を刺したのが先であつて右肩のあたりすなわち背部を刺したのは後であり且つ最後であると述べており且つ被告人の自供する犯行自体としては被害者にいはば止めの一撃を与えようとして最后に背部右側を刺突したということは自然でもありこのことと以下に列記するような諸事情と相俟つとき背部右側の刺突と腹部左側の刺突の順序についての被告人の供述に対する右のような疑念、臆測を容れて被告人が右順序につき故意に詐つて述べたかもしくは取違えて述べたものと積極的に推認することも遂に出来なかつた。従つてこの点に関する被告人の供述と客観的事実との間に喰い違いの存する高度の蓋然性は本件自白の真実性に大きな影響を及ぼさざるを得ないのである。

(二)  本件犯行直後の現場附近の状況による検討

司法警察員大杉武雄作成の昭和三十年九月六日付実況見分調書並びに同人に対する証人尋問調書の記載によれば、同人は本件発生の当夜本件発生時刻から僅か数十分しか経つていない午后十一時頃までの間及び翌九月六日の午前五時から午前七時までの間に亘つて犯行現場と認められた気仙沼高等学校北西角三叉路附近からかやのみ保育園入口の三叉路(〈ヲ〉点)、九条市営住宅入口の三叉路(q点)を経て被害者宅に至る間の道路上及びその附近の実況見分を行つたことが認められる(事件発生当夜の実況見分を一応打切つて翌朝これを再開するまでの間は〈ヲ〉点と〈q〉点に警察官を立てて両地点間の交通を遮断して現状保存の処置が講ぜられた)。ところで右の証拠に当裁判所が昭和三十一年十二月三日為した検証の調書、昭和三十二年十一月二十三日為した検証の調書の各記載を綜合すると〈ヨ〉点(被害者が被告人を振り返つた地点として被告人が指示した場所)附近の道路の東縁の雑草の生えていた場所(当裁判所が昭和三十一年十二月三日為した検証調書添付見取図其の三第六、第八、第九図及び前記実況見分調書添付見取図其の二の記載を綜合するとこの場所は〈ヨ〉点より約七米北方に当る)に多量の血液が滴下し、それが葉から茎を伝つて約十糎位下方まで流下した痕跡があり、且つ該血痕集団に外枠を画くとその形状は径二十糎位の玉子型をなしていたこと、この場所より南方では血痕が全く発見されなかつたこと、そこから被害者宅までの路上には略一、二間の間隔を置いて点々と血痕があつたこと、この血痕の断続線はそこから被告人がAの下腹部を刺したという〈タ〉点(第二犯行現場)の附近までは道路の右側に略直線状を為して続き、そのうち右〈タ〉点の北方約五・六米の地点(右実況見分調書添付見取図其の二B点)にあつた血痕は稍多量にして且つ道路中央よりも稍左寄りのところにあつたこと、右〈タ〉点附近から先の血痕の断続線は道路を左右に不規則な蛇行状を画いて続いていたが、そのうち被告人がAの右肩のあたりを刺したという〈レ〉点(第三犯行現場)の北方約十三・二米の地点(右実況見分調書添付見取図其の二C点)の道路の略中央部及び被害者宅から見て左斜向いにある大柿長助方前の路上(右実況見分調書添付見取図其の二D点)にあつた血痕はかなり多量のものであつたこと、被害者宅東隣り斎藤栄蔵方門口前路上にはAの遺留したと認められる血染の風呂敷一枚(証第一号)が落ちていたことが認められる。他方司法警察員作成の昭和三十年九月六日付領置調書、証第一号ないし第八号、証第十号の各証拠品に存する血痕の附着状況、及び前記の昭和三十年九月六日付実況見分調書(特にこれに添付されている18、20、22、23、34、の写真)並びにAの両腕に存する前記の刺切創(〈C〉、〈D〉、〈E〉)の状況を綜合すると、Aは本件被害を蒙つた際終始右手に竹とビニールで編んだ手提籠(証第二号)を持ち続け(被告人も前記自白調書においてこれに符合する供述をしている)この手提籠の中には一番下にハンカチ(証第六号)に包んだアルマイト製弁当箱二個(証第四号)とおかず入一個(証第五号)を入れ、その脇に醤油さし一個(証第三号)を入れこれらの物の上にチリ紙一〆(証第八号)、その上にハンカチ一枚、風呂敷一枚(証第一号)を入れてあつたことが窺われ、同女が右前膊部に〈D〉の刺創を受けるに及びこれからの出血は当時被害者の着用していた薄い毛糸のカーディガン(証第十号)の右袖にしみ込み歩行とともに右手を伝つて一部は手提籠の中の風呂敷等の上に落ち一部はその握り手を伝わつて籠部の外側に伝わり流下しそこから外部に滴下したものと推認される。

そこで前記のような血痕の存在する場所、その滴下状況を前記の被告人の本件犯行の自供と対照すると、前記〈ヨ〉点附近から前記〈タ〉点(第二犯行現場)のあたりまでに断続する血痕が略直線状に道路右側に在つたという事実は被告人がAは〈ヨ〉点から道路の右側を急ぎ足で逃げたと述べていることに、右〈タ〉点附近の道路中央よりも左寄りのところに相当多量の血痕があつたという事実は被告人が第二犯行現場で同女の左腹部を刺した際同女がその進行方向の左の方に逃げたと述べていることに、前記〈タ〉点附近から被害者宅までに断続する血痕が道路を左右に不規則に蛇行していたという事実は被告人がAは〈タ〉点で腹部を刺された後ふらふらしながら歩いて行つたと述べていることに略符合する。

ところで前記被告人の自供によると被告人は本件犯行にあたり先ず同女を第一犯行現場に引張り込み、そこに同女を押し倒して馬乗りとなつて同女を押えつけ、同女も亦必死に抵抗してもみ合つた末同所で被告人は同女の左前膊内側面に〈C〉の刺創、右前膊前側に〈D〉の刺創、左上膊前側に〈E〉の切創を与えたのであり、同所附近には格斗の跡や血痕があつたのではないかと思われるのである。(右前膊部の刺創は九・六糎という深いもので多量の出血があつた)。しかるに証人大杉武雄同木村栄に対する各証人尋問調書によれば、右証人等が本件発生の日の翌朝右犯行現場附近を実況見分し、もしくは兇器捜索のため調査したときに別に異常を発見しなかつたことが認められる。尤も右の証拠と司法警察員作成の昭和三十年九月六日付実況見分調書添付の写真1、2当裁判所が昭和三十一年十二月三日なした検証調書を綜合すると本件発生当時同所附近は芝草が生えその中にあまり背の高くない雑草がまばらに生えていた野地であることが認められ、このような場所で格斗をしたとしてもその跡は目立つ程残らないとも考えられるし、又同所附近に血痕があつたとしてもこれを発見しなかつたとも考える余地があろう。しかし他方当時被害者は上に橙色の薄い毛糸のカーディガン(証第十号)を着用し、頭髪は所謂パーマネントをかけ渦をつくつて居り、頭髪の長さは前頭部で約九・五糎、頭頂部で約一七・〇糎左右側頭部で約八・五糎、后頭部で約八・〇糎あつた(高橋健吉の鑑定書)。同所附近の地面の状況は前記のとおりであり、そこでの犯行動作がもし被告人の自供のごとしとすれば被害者は被告人に押倒され馬乗りとなられ必死に抵抗しているのであつて、これ等の状況からすれば被害者の右着衣或いは頭髪に地面上の枯葉等が当然附着し且残留することが推認されるに拘らず大杉武雄作成の実況見分調書や高橋健吉作成の鑑定書の記載を見ても証第十号のカーディガンや被害者と頭髪にこれ等の附着している状況を発見した形跡はなく、現に、右カーディガン(本件犯行の翌日押収されている)を検するも何らこれらの附着は認められないのである。

更に前記〈ヨ〉点附近に多量の血液が滴下しているに拘らずその南方に血液が滴下した状況が全く存しないことは被告人の供述によつてこれを理解し得がたいものがある。即ち被告人の自供によると被告人は前記第一犯行現場で被害者を押倒して馬乗りとなり兇器で同女を脅かしている際同女の左右前膊部を傷け更に刃物を持ちかえて争つている内に又同女を刺したため驚いて立上つたところ同女も直ぐ起き上つて走つて逃げたというのであるが、右第一犯行現場で被告人が与えたことになる創の内〈D〉の右前膊部の刺創は前記のように相当深いもので多量の出血があり被告人の述べるその際の状況時間の経過に照すとその出血は被害者がまだ第一犯行現場にいるうちにその着用していた前記カーディガンの右袖に浸潤していたものと推認され、もしそうだとすれば被害者が同所から〈ヨ〉点に至る約三〇米を逃げ走る間にその血液は地上に滴下しただろうと思われるに拘らずその間血液の地上に滴下した跡がないのは不合理の感を免れず、仮に〈ヨ〉点附近に至るまでは血液が手提籠の側面を伝わり流下していたためにその間地上には滴下しなかつたとしてもそれが〈ヨ〉点附近で一挙に多量に滴下したということは理解するに困難である。被告人は前記〈ヨ〉点附近で被害者が被告人を振り返つた(〈10〉の調書、但し〈9〉では立ち止つて後を振り向いたようだと述べている)というのであるが、そのような一寸した動作で一挙に多量の血液が滴下するとは考えられない。更に被告人は〈ヨ〉点附近で両手で被害者を背後から押したところ同女は道路東側の草むらにうつぶせに倒れたとも述べている(この供述は前記のように〈10〉の調書にのみ現われている)のであるが、既に姦淫の意思を棄てた被告人が何故更に〈ヨ〉点附近まで同女を追尾してこれを突き倒すという行動に出るに至つたかの理由については同調書によるも何等明らかでない。それは暫く措くとしても前記〈ヨ〉点附近に多量に落ちている血液はその滴下の状況から見て被害者がその場に倒れた際に生じたものとは到底認め難いところである。そして右大杉証人の尋問調書によれば同所附近で被害者の倒れたと認められる状況が存しなかつたことも明らかである。従つて被告人が被害者を押した際被害者は前の方によろめいて倒れさうになつたが実際は倒れなかつたのだとでも臆測すれば格別、被告人の右の自供内容を以つてしては右の地点における多量の血液の滴下を明らかになし難いものである。して見ると被告人が右第一犯行現場で被害者に対してその自供するような犯行をなしたとの供述及びこれに引続く被害者の行動に関する供述は根拠に乏しく疑わしいものといえる。

(三)  被害者が発したと認められる悲鳴の状況による検討

北越貞和の司法警察員に対する供述調書によれば同人は本件発生の当夜自宅で午后十時半近い頃先ずかやのみ保育園の方向からキーとキャーの中間位のあまり感じのよくない声が連続して二声ばかり聞え、それから一、二分の間隔を置いて九条市営住宅入口附近から前の声より深刻な悲痛な感じのするギャーとキャの中間位の声が一声聞えた旨述べ、佐藤はるの司法警察員に対する供述調書によれば同人も本件発生の当夜午後十時半頃自宅で九条市営住宅入口の曲り角(〈q〉点)の方向から鶏か猫の鳴き叫ぶようなキャーと一寸長めの声が聞えた旨述べ、大柿としみの司法警察員に対する供述調書によれば同人も自宅で本件発生当夜午后十時二十分から二十五分頃までの間にやはり九条市営住宅入口の曲り角(〈q〉点)の方向からキャーと叫ぶような声が聞えた旨述べている。そして北越貞和が最后に聞いた悲鳴と佐藤はる及び大柿としみの聞いた悲鳴はAの発した同一の悲鳴で同女が犯人から攻撃を受けたときに発したものと考えてよいと思う。ところで被告人の自供によると犯行の際被害者が発した悲鳴の状況については必しも明確ではなく第一犯行現場で被害者を押倒して最初に被害者を刺したときと第三犯行現場で被害者の背部を刺したときの二回であつたとも(前記〈1〉の調書)第二犯行現場で被害者の腹部を刺したときであつたとも(前記〈7〉〈9〉〈10〉の調書)第三犯行現場で被害者の背部を刺したとき被害者が声を上げたかどうか判らないとも(前記の〈5〉〈9〉調書)述べているがいずれにしても被害者が悲鳴を上げたのは少くとも第三犯行現場かそれ以前の段階であつたと述べていることは明らかである。ところで北越貞和が同夜悲鳴を二回聞いたというその回数の点、及び最初に聞いた悲鳴がかやのみ保育園の方向即ち大体において第一犯行現場の方向と同一の方向から聞えたという点は被告人の供述内容と合致するとも見られるが、右三名が聞いた同一のものと認められる悲鳴の聞えてきた方向についての供述と司法警察員作成の昭和三十年九月六日附実況見分調書添付見取図其の二、当裁判所が昭和三十一年十二月三日為した検証調書添付見取図その三第六図によつて認めうる右三名の各自宅の位置との関係によればAが右悲鳴を発した場所は被告人の自供する犯行現場とは認め難いものがある。勿論家の中に居る者が戸外からの音声を聞く場合それが聞える方角についての感覚は左程正確なものとはいえないが、北越貞和が第二回目に聞いた悲鳴の方向として九条住宅入口附近と述べていることについては同人方からの距離、方向から見て第三犯行現場での悲鳴をその方向と感ずることはさ程不合理ではないにしても佐藤はる、及び大柿としみが被害者が第三犯行現場で発した悲鳴を九条住宅入口の曲り角(〈q〉点)の方向と聞いたとするにしては両名方が右曲り角に極めて近接していること、第三犯行現場は右曲り角から南に約六十米の距離にあつて、右両名方から見た第三犯行現場の方向と右の曲り角の方向は著しく異なることからして容易に首肯し難いものがある。従つて本件犯行現場が被告人が自供する場所と相異すると見られる疑いが濃い。

(四)  被告人が本件犯行に使用したとする兇器に関する供述について

被告人が本件犯行に使用したと称する兇器は発見されていないがこれが如何なるものであるかについての被告人の自供は幾度も変遷を重ねている。これをその供述の順に従つて示すと最初は刃の長さが三寸位巾が一寸前後ある厚手の二つ折ナイフであると述べ(前記〈1〉〈2〉の調書)次いで刃の長さが約四寸、巾は柄のところで一寸位、先端で一分位ある片刃の刃物であつてこれは被告人の父が漁船で働らいていたころ手に入れたもので以前から被告人宅にあり薄茶色に汚れた白ズック製サックがついていたと述べた上その形状を図示しており(前記〈3〉の調書)或は刃の長さが四寸位の片刃の刃物であつてこれには木製の鞘がついていたと述べた上その形状を図示しているがこれは先に図示したものとは全く形状を異にしている(前記〈4〉の調書)更に刃渡り三寸五分乃至四寸位のどす様の片刃の刃物であると述べた上その形状を図示しているがこれは〈4〉で図示するものとほぼ形状を同じくし(前記〈5〉の調書)或は刃渡り三寸五分位の片刃の刃物であると述べ(前記〈6〉の調書)又刃渡り三寸四分乃至四寸位のどす様のものであると述べ(前記〈7〉の調書)更に刃の長さ四寸位の片刃の刃物でズックのようなもので作つたサックがついていたと述べた上兇器の形状を図示しているがこれは前記〈5〉の調書で図示するものと稍形状を異にする(前記〈8〉の調書)そして再転して刃渡り三寸四分乃至四寸位あるどす様の刃物と述べている(前記〈10〉の調書)なお被告人が兇器はサックもしくは鞘つきの刃物であると述べるようになつてから犯行動作の前後におけるこれらサックもしくは鞘の取扱に関しては全く述べるところがないのである。

更に犯行後兇器をどうしたかについても被告人の供述は屡々変遷している。すなわち本件自白の当初の頃兇器が二つ折りのナイフだと述べていたときはそれを昭和三十一年六月二十八日頃竹市という友人にやつたと称していたが(右〈2〉の調書)その後兇器が以前から自宅にあつた刃物だと述べるに至つてからはそれを昭和三十年十月上旬頃自宅附近の友人宅の近くで遊んでいたときに何処かに置き忘れたと述べたり(右〈3〉の調書)、或は気仙沼市三日町千葉写真館向いの露地を入つたところの小山という家の石垣の間に隠してあると述べたり(右〈4〉の調書)、犯行現場から逃走してくる途中でなくした、(被告人が気仙沼警察署留置場に留置されていたときに留置場内で母宛に書いたメモ紙片(証第十九号のうちの一部)の記載、この紙片の記載は証拠によれば昭和三十一年八月二日に為されたものと認められる)とした挙句本件を犯した年の十月末頃友人四、五名とともに山に栗拾いに行つた際に紛失したと述べ(右〈6〉の調書なお証拠によれば被告人が一緒に行つた友人と称する者がその頃被告人と右のような行を共にしたことは認め難い。)、その後はこの供述を維持した。右のように被告人の兇器に関する供述が目まぐるしく変遷したことは引いて本件犯行に関する自白自体の真実性に多大の疑いを抱かせるものである。尤も犯人は犯行自体について自白しても兇器その他の犯行附随の事情については種々の動機から真実を述べないこともあり得るであろうけれども、被告人の前記供述の変遷を見ても特にこの点について故意に隠秘すべき事情があつたことを見出し難いのである。反面以上の状況は兇器に関する捜査官の追及が被告人に対し極めて急であつたことを物語ると共に一旦追及を受けると被告人はこれに迎合し自己の真実に反して安易に虚構の事実を供述する気の小さい弱い性格の持主であることを示すものともいえる。(証人千葉忠次郎、同千葉まつえ、同佐々木堅一(第一回)同佐藤菊之助、同高橋孝允の各尋問調書)。そして証拠に徴するも当時被告人がその自供するような刃物を所持していたことを確認するに足るものは存しないのである。

(五)  被告人が本件発生当夜着用していたという衣服に対する血痕附着の有無について

なお被告人の供述調書(前記〈2〉〈3〉並びに司法警察員に対する昭和三十一年八月十日附のもの)並びに被告人の当公判廷の供述によると当夜被告人は桃色ワイシャツ(押収してある証第二十四号)を着用しており、被告人の述べる犯行の態様並びに被害者の出血の状況に照すと右ワイシャツには相当に被害者の血液が附着したものと推認されるが(前記〈1〉の調書)右八月十日附の調書によると当時被告人は袖をまくつていたので袖裏が出ていた一部に血が豆粒大位点々と附いていたが目立つ程ではなかつたと述べており(この調書の記載状況から見ると被告人は右シャツを自宅で引続いて着用していたのではないかと見られる)又富谷定儀、加藤孝一共同作成の鑑定書によれば右ワイシャツには血液が附着していないとされている。

(六)  被告人が何故に本件犯行について自白する供述をしたかの理由について

要するに被告人の犯行自供の内容は客観的状況に合致すると見られる点も尠しとしないが以上検討した諸点に鑑るとその真実性に多大の疑いを持たれ遂にその真実性を確信できないのであるが、被告人が何故本件犯行の自供を為したかの点について考察して見ると被告人は右自供の当時十七才の少年であり同年春高等学校一年を中途退学しているが学業を好まず飽き易く、ねばりのない性質であると共に気の小さい弱い性格の持主であり従つてその知能もさ程高くないと認められる(前記証人千葉忠次郎、同千葉まつえ、同佐々木堅一、同佐藤菊之助、同高橋孝允の各尋問調書)従つて取調官の追及にあえばとかくこれに迎合しその真実に反して虚構の事実を述べ易いこと先に示したとおりである。然しながらこれのみを以て本件犯行のような重大な犯罪事実を真実に反して自供するとしては納得し難いものがある。ところで被告人が本件について取調べを受けるに至つた経緯は先に述べたが更に被告人に対する捜査官の取調べの状況を直接その任に当つた司法警察員である佐藤利一、同佐藤好一、同阿部八重俊、同山崎清七に対する証人尋問調書によつて見ると佐藤利一は気仙沼警察署刑事副係長で昭和三十一年七月二十八日から翌月十八日頃までの間即ち警察での被告人取調べの頭初から最後までの期間十数回に亘り被告人の取調べに当り、佐藤好一は県警察本部刑事部捜査第一課の課長補佐であり上司の命をうけて本件捜査の指示をなし同年七月三十一日被告人が最初本件の自白をなすに至る際並びにそれに引続く二日間被告人の取調べに当り、又、阿部八重俊は右捜査第一課の課員で七月二十八日から同月三十一日まで被告人の取調べに当り、山崎清七も同じ課員で同月二十八日被告人の取調べに当つたのであるが同年七月二十八日から同月三十日までの間は佐藤利一と阿部八重俊或は阿部八重俊と山崎清七の両名が共同してその取調べに当り、被告人が最初に本件犯行を自供した七月三十一日には佐藤好一、佐藤利一、阿部八重俊の三名が同席し午前から共同して取調べに当り同日午後一時三十分頃に至つて被告人が自供しそれに引続く二日間は佐藤好一、佐藤利一の両名が同席して共同して取調べをなしたこと、被告人が自供するに至るまでの間、被告人の本件当夜の行動についての供述内容は同夜午後十時頃までの点は若干の差異はあつたけれども被告人が当公判で述べていることと概ね一致していたがその後の行動についての供述は取調官から追及をうける都度幾度か変遷して行つたため取調官がこれに対し疑念を持ち執拗に追及し時に高声を発したこともあり、又被告人がA等を追尾して行つたのを見た者があるとして誘導したことも認められ、又犯行自供後においても供述の喰い違いについて時々高声を発して追及したことも認められる。かかる状況を前記被告人の年令、知能の程度、並びにその性質、性格等に照して考えると被告人が当公判廷或は家庭裁判所において裁判官に対して述べたように、取調官の追及に会い思考が混乱しいくら話しても警察は自分を犯人ときめてかかつている以上話しても無駄だと感じ自暴自棄的な気持になつて意思の弱さから本件犯行を自供し、その後幾度かこれを翻そうとしながら絶望的な気持からこれを果さなかつたということ、犯行の状況については本件当時三陸新報に掲載された記事や人の噂等を想起して供述したものであるとの弁解も強ち一概に排斥し難いものがある。

第六結論

以上に述べたとおり被告人の本件犯行の自白には真実性を認め難く従つてこれを記載した供述調書等はすべてこれを証拠とすることができないところ本件においては右自白を離れて被告人を犯人なりと断ぜしめるに足りる証拠は存しないから結局右公訴事実については犯罪の証明がないことに帰するので刑事訴訟法第三百三十六条後段の規定により被告人に対し無罪の言渡をする。

(裁判官 山田瑞夫 宮崎富哉 金隆史)

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